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ケンタッキーダービー
全日本2歳優駿 全日本2歳優駿
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全日本2歳優駿から
ケンタッキーダービーヘ!

川崎競馬場で最も伝統のある全日本2歳優駿競走(JpnⅠ)が、毎年5月にアメリカで行われるケンタッキーダービーの出走馬選定ポイントレースに選定されました。これにより、全日本2歳優駿競走の上位馬は、ケンタッキーダービーへ出走できる可能性があります。地方競馬のレースが海外のGⅠレースへの出走馬選定ポイントレースとなるのは史上初めてであり、「川崎から世界へ」の門戸が開かれたことになります。世界へ夢をつなぐ今年の全日本2歳優駿は、12月13日(水)川崎競馬場で開催されます。

ケンタッキーダービーの歴史

ケンタッキーダービーの歴史

チャーチルダウンズ競馬場撮影:Coady Photography

5月の第1土曜日に、北米最大の馬産地ケンタッキー州の中心都市ルイヴィルにあるチャーチルダウンズ競馬場で、3歳3冠 緒戦として施行されるのがケンタッキーダービーだ。創設されたのは1875年。創設を提唱したのは、19世紀初頭に白人米国人として初めて西海岸への陸路の旅を完遂したルイス・クラーク探検隊の指揮官の一人、ウィリアム・クラークの孫にあたるルイス・クラーク大佐だった。1872年から73年にかけて欧州を旅したクラーク大佐は、ジョッキークラブという組織が司る英国競馬と、工プソムを舞台としたダービーというレースに心から感銘。帰国するルイヴィル・ジョッキークラブを組織し、320名のクラブ創設メンバーから100ドルずつの資金提供を受け、新競馬場建設の原資を確保すると、叔父にあたるジョンとへンリーのチャーチル兄弟が街の中心地から南に3マイルほどの地点に所有していた土地をリースで借り受け、競馬場の建設に着手。その柿落としとなった 1875年5月17日に行われた開催で、メイン競走として施行されたのがケンタッキーダービーであった。
英国ダービーを手本としただけに、当初は距離12F(約2400m)で施行されたが、これが現行の10F(約2000m)に短縮されたのは1896年のことだった。一地方の花形競走に過ぎなかったケンタッキーダービーが、全米規模で注目を集めるようになったのは、1930年代だった。二ューヨークタイムズやデイリーレーシングフォームで健筆をふるった競馬記者のチャール ズ・ハットンが、「ケンタッキーダービー、プリークネスS、ベルモントSの3競走こそ、3歳馬にとって最も重要なレースである」との持論を展開。このハットンこそが「北米3冠」という言葉を初めて使った人物と言われている。奇しくも1930年代の北米には、ギャントフォックス、オマハ、ウォーアドミラルという3頭の3冠馬が出現。3冠の概念が定着するとともに、その1冠目としてのケンタッキーダービーは存在感を増し、地位と人気を向上させていった。

ケンタッキーダービーの歴史

撮影:Coady Photography

米競馬における3歳牡馬の最大目標

その後ケンタッキーダービーは北米競馬界において、唯一無二の存在となった。例えば2017年5月6日、ケンタッキーダービー当日のチャーチルダウンズは15万8070人の観客を集め ている。北米では秋にブリーダーズCという、シーズンを締めくくるビッグイベントが行われているが、BCクラシックを含めて9つものGIが施行された2016年11月5日のサンタア二タが動員した観客は7万2811人であった。15万8070人というのは、その3週間後に府中の東京競馬場で行われた日本ダービーの入場人員も、遥かにしのぐのだ。ケンタッキーダービーは、別称を“The most exciting two minutes in sports(=スポーツの中で最も興奮する2分間)”という。スポーツ好きの米国人がことさら熱狂するのが、ケンタッキーダービーのゲートが開いてから、勝負が決するまでの2分間なのである。ケンタッキーダービーの出走馬が本馬場に姿を現すと、場内には“My old Kentucky home”の調べが流れる。15万人による、ケンタッキー州歌の大合唱が始まるのだ。観客たちが手にしているのは、ケンタッキーの特産品であるバーボンをベースにした、名物のミントジュレップだ。それはまさに、ダービー当日のチャーチルダウンズでしか味わえない 雰囲気で、だからこそ、その場に一度は身を置いたことがなければ競馬ファンではない、とまで言われているのである。優勝馬には薔薇の肩掛けが贈られることから、“Run for the roses”とも呼ばれるのがケンタッキーダービーだ。そこに出走馬を送り出すことが、米国における全ホースマンの夢となっている。

全日本2歳優駿から
ケンタッキーダービーへ!

全日本2歳優駿からケンタッキーダービーへ!

撮影:斎藤克己

ケンタッキーダービーのフルゲートは20頭である。かつては、重賞競走で収得した賞金の多い順に出走権が与えられていたが、これに代わってポイントシステムが導入されたのが、2O13年に行われた第139回ダービーからだった。ダービー路線にある36競走に、それぞれのレースの重要性に応じてポイントを設定。獲得した累積ポイントの多い順に出走権が与えられるシステムに変更されたのだ。2017年の第143回ダービーからは「JAPAN ROAD TO THE KENTUCKY DERBY」 が新設され、2歳11月に東京競馬場で行われる力トレア賞と、3歳2月に 同じく東京で行われるヒヤシンス賞が、ポイント指定競走となった。この2競走を通じて最多ポイントを獲得した馬に、ケンタッ キーダービーへの出走権が与えられることになったのである。
「JAPAN ROAD TO THE KENTUCKY DERBY 」は2O18年5月5日に行われる第144回ダービーに向けて、新たな展開を見せることになった。12月13日に川崎競馬場で行われる全日本2歳優駿が、ケンタッキーダービー路線にあるレース 認められ、ポイントが設定されることになったのである。日本におけるダート部門の2歳王者決定戦的位置付けにあるのが、全日本2歳優駿だ。ケンタッキーダービーを走る日本馬を選別するレースとして、これほど相応しい舞台も他にあるまい。地方競馬のレースが海外GIレースのポイント指定競走となるのは 史上初めての快挙である。川崎からチャーチルダウンズへ。川 崎が、日本の全ホースマンにとって、夢のとば口となる。

日本からの
ケンタッキーダービー
挑戦の歴史

フサイチペガサス

1着

フサイチペガサス

撮影:斎藤克己

1998年7月に開催されたキーンランド・ジュライセールで、父ミスタープ口スペクターの牡馬が最高値の400万ドル(当時のレートで約5億6千万円)で、日本人馬主の関口房朗氏に購買された。のちのフサイチペガサスである。西海岸の二ール・ドライスデール厩舎所属となった同馬は、2歳12月にデビュー。3歳1月にデビュー2戦目で初勝利を挙げると、良血馬らしく一気の上昇曲線を見せ、条件戦、GⅡサンフェリペS、GⅡウッドメモリアルS、GIケンタッキーダービーと、破竹の5連勝で北米3歳世代の頂点に立った。2歳時に未勝利だった馬によるケンタッキーダービー制覇は、1967年のプラウドクラリオン以来33年ぶりのことだった。

スキーキャプテン

14着

スキーキャプテン

撮影:斎藤克己

社台ファームの米国法人フォンテンブ口ーファームの生産所有馬で、二ューヨーク牝馬3冠初戦の工イコーンSを制したスキーゴーグルの6番子で、GIムーランドロンシャン賞勝ち馬スキーパラダイスの半弟という超良血馬が、スキーキャプテンである。馬主代表の吉田照哉氏と森秀行調教師の間では、デビュー前から練られていた北米遠征計画が、GⅢきらさぎ賞で重賞初制覇を果たした後に実行に移され、スキーキャプテンは日本調教馬として初めてのケンタッキーダービー出走を果たした。結果は、勝ち馬から10馬身近く離された14着だったが、森厩舎にとっては3年後のシーキングザパールによるGIモーリスドケスト賞制覇へ向けて、貴重な糧となった。

ラニ

9着

ラニ

撮影:斎藤克己

前田幸治氏のノースヒルズマネジメント(現ノースヒルズ)による生産所有馬で、天覧競馬だった2OO5年の天皇賞・秋を制したヘヴンリーロマンスが、ケンタッキーで繁殖入りし、北米のリーディングサイヤー・タピットを交配されて生まれたのがラ二だ。ケンタッキーダービーの優先出走権を争うポイントが設定されたUAEダービー出走が決まった段階で、出走権を得られればドバイから北米に直行する段取りを整えた上でドバイに渡り、見事にUAEダービーを制してチャーチルダウンズに乗り込んだラ二。ケンタッキーダービーこそ9着に敗れたものの、3冠最終戦のベルモントSで3着に入り、北米3冠における日本調教馬初の入着を果たしている。

ラニが見せてくれた夢

ラニが見せてくれた夢

牝馬ながら天皇賞・秋を制し、繁殖としてアメリカに渡ったヘヴンリーロマンスの3番仔として誕生したのがラニ。早い時期から海外挑戦が検討され、3歳初戦のヒヤシンスSでは5着に敗れたものの、勇躍ドバイのUAEダービーに挑戦。世界の強豪相手に、見事日本調教馬として初制覇を果たした。その勝利によって、ラニはケンタッキーダービーの出走権を獲得。日本には戻らないままアメリカへと渡った。その挑戦はケンタッキーダービーだけにとどまらず中2週、中1週という厳しい日程で行われる北米三冠すべてに出走。三冠目のベルモントSでは直線鋭く追い込み、ハナ+1馬身半差で3着と見せ場をつくった。北米三冠では勝利こそ挙げられなかったものの、日本調教馬として初めての挑戦は快挙といっていい。その後日本に戻り、4歳になった今年春にもドバイに遠征したが、残念ながら勝ち星を挙げられないまま、来春からの種牡馬入りが決定。父はアメリカのリーディング種牡馬タピット、母の父サンデーサイレンスという、世界的にも注目される血を次代に伝える。